2018.5.01

「アキーラ カト」の効果(ペルー)

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今回は旅の思い出から、ペルーで私が優遇され守られたお話をしようと思います。
私がフジテレビで働いていた時代、Kちゃんという男性新入社員の仲良しの同僚がいました。Kちゃんの亡くなったお父様はもちろん日本人ですがペルーで英雄でした。

お父様のお名前は「加藤明」さん。ペルーでは「アキーラ カト」。
遺族が許可しなかったため日本ではあまり報道されていませんが、Kちゃんのお父様はダメダメだったペルーの女子バレーボールを世界強豪国にまで押し上げた監督です。数十年前の事ですが当時は国民的英雄で、遠くから来た外国人なのに大統領を始め子供まで知らない人はいないくらいでした。

これは聞いた話で定かではないですが、1982年3月に亡くなった時葬儀はペルーで初めて外国人を国葬で見送ったそうです。そしてこれは本当ですが5万人のリマ市民が葬儀に参列しTVでも生中継され、一晩中国民皆が泣いたと。

葬儀の後、日本へ戻ったKちゃんがその後ペルーへ行くと極秘で行っても必ずバレて滞在中全てが無料になると言っていました。だから行きたくないと(おまけにTVカメラがずっとついて来るそうです)。大統領とも何度も食事をし、本当のVIPです。

寡黙なのに私にだけはよくしゃべるKちゃんから聞いた話と、後のマスコミ情報、現地で聞いた話を合わせて繋げるとこんな感じになります。

それらを聞いた私はその後のペルー旅行の際現地で「アキーラ カト」という名前を出してみました。すると、彼の息子の友達だという私に対して抱きついて喜びを表現してくれました。タクシー運転手、ホテルの人、イミグレーション、税関の人、警察官、お店の人、旅行会社、キリがないですが皆さん驚き、喜び、抱きつき、『「アキーラ カト」と同じ国から来たVIP』のように接してくれました。

誰よりも驚いたのは私です。亡くなられてから15年くらい経っているのにその名は絶大だったのです。私の旅行当時は(今もかな)ペルーは危ない国と言われ身の危険もそうですがスリ、置き引き、ボラれる等諸々気を許せない国でした。それがあの名前の効果で、たくさんの人と楽しく過ごせて、その上私を守ってくれたりもしました。

例えばタクシーでは運転手と楽しい会話が弾み、地元ならではのお薦め場所又は逆に危ない場所情報をくれたり、車が目的地に着くと一緒に降りてきて建物の中まで私をガードして、中の誰かに私を受け渡して(?)車に戻る、それどころか料金はいらないという運転手もいました。

「アキーラ カト」の友達でしょ、お金なんていらないよ!だって彼は俺たちの国を世界一にしてくれたんだ!

生活に余裕なんてある訳ないはずなのに。何度料金を渡しても受け取らず、「俺たちの国で安全に楽しく幸せな時間を過ごしてね、セニョリータ!何かあったら絶対に連絡するんだよ!迎えに行くから」と紙切れに連絡先を書いてくれたり。私は持っていたお菓子をあげて感謝しました。

ホテルではどの場所にいる従業員も満面の笑みで手を振ったり挨拶してくれて、頼んでないのにやっぱりどこか途中まで付いて来て守ってくれたり、タクシーを捕まえて「このセニョリータを安全に届けるように」と運転手に言ったり。危険な国ではその一言って大きいのです。

レストランでは無料にしてくれた記憶はないものの何かサービスで付け加えてくれたり。
私がこの先ボラれないようにと様々な物のだいたいの値段を教えてくれた人もいました。
何もしなくてもただお友達のお父様の名前を出しただけで一瞬で空気が変わり楽しく和やかになり話が弾み、一瞬で私の味方になり私は守られる対象になりました。それは私の旅をどれ程楽しいものにし、そして安全にしてくれたことでしょう。

「アキーラ カト」ってすごい。

ペルーには3、4回訪れましたが、最後の方ではたまにその名を知らない若い人にも遭遇しました。ですからその後だいぶ時間が過ぎた現在はきっと年配の方くらいしかKちゃんのお父様のことを覚えていないと思いますが。

全く面識もないのにこんなにも私を守ってくださったお友達のお父様に心から感謝します。
加藤明さん、ありがとうございました。


加藤明
●1965年5月
依頼によりバレーボールの監督としてペルーへ渡る
以来、17年に渡り監督、又はアドバイザーとして指導
(その後ペルーは世界選手権・オリンピックで銀メダル獲得)

●1982年3月20日
肝炎により永眠(享年49歳)

●2000年
彼の功績を称えてリマ市にモニュメントが建てられる

●2001年
カトウアキラ小中学校が建てられる(現在も毎年120名が卒業)


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